電脳文芸日記 5

 LINUXというOS(コンピューターの基本ソフト)があります。フィンランドのリーナス・トーバルという青年が作り、内容を公開したこのOSは、今や、Windowsを脅かす存在になっています。彼は今、アメリカで小さなソフト会社を経営するプログラマーとして生活しているそうです。同じソフト会社の経営者でも、Windowsで大成功を収めたビル・ゲイツとは、すべての面で正反対の生き方と言えるでしょう。LINUXが今後いくらシェアをのばしても、彼のもとにライセンス料は一銭も入りません。
 作家とプログラマーを同じ視点では比較できませんが、もしも作家が「印税生活への執着」を捨てたらどうなるのでしょう。
 作家を、「作品を本にして、それを売って生活する人」と定義したら、作品を無料公開する人間はもはや作家ではありません。
 しかし、作品を売って儲けるというのは、二次的な行為、あるいは結果にすぎないのではないかという気もします。
 例えば、宮沢賢治は、生涯一度しか原稿料を貰えませんでした。印税にいたっては、一切手にしていません。彼の代表作は、ほとんどが彼の死後に世に出たものだからです。
 紫式部は「源氏物語」を書いて優雅な印税生活を送ったわけではないですし、そもそも、小説を書くことを金儲けの手段とは考えていなかったでしょう。「あほ言うな。時代がまったく違うし、彼女は宮仕えの身で、もともと生活には困っていなかったのだから当たり前だ」と言われるかもしれませんが、要は、「文章を売ることではなく、文章を他人に読んでもらうこと」という原点にまで立ち戻ってみたということです。

 活字離れの風潮は今後も続いていくでしょう。面白い作品でも、なかなか本にならない。本にならなければ、作家に金が入らないという以前に、作品が世に出ていかない。世に出ない作品は、存在しないに等しい……。
 作品の命を、自分の生活や欲やメンツより優先させるのもまた、作家という生き方かもしれません。そう思ったとき、無料公開の決意がつきました。

 次に、作家と作品の関係ということを離れ、文芸作品の形態という点を考えてみると、「本」という文化を持ち続けるためにも、このような「ファイルでの無料公開」という方法は必要なのではないかとも思います。
 この作品はもとより、私の小説は執筆されたときからデジタルファイルです。生原稿などというものはありません。生原稿では不特定多数の人たちに届けられないからこそ、印刷物というものが生まれました。しかし、現代では、文章は最初からデジタルファイルであり、ファイルはそのままの形で、印刷物よりはるかに容易に、また広範囲に、共有できるものです。言い換えれば、テキストファイルである文芸作品にとって、「印刷」はもはやオプションのひとつにすぎません。デジタルで生まれた作品がデジタルのまま発表されるのは、極めて自然なことでしょう。

 もちろん、日本では、まだまだ文芸作品をディスプレイで読むという習慣は定着していません(アメリカでは、スティーブン・キングが新作短編『ライディング・ザ・ブリット』をファイル配信すると同時に、50万本以上がダウンロードされるなど、ファイルでの文芸配信もどんどん成功していますが)。だからこそ、ファイルの形で無料公開しても、同じ作品が本になったときの価値が下がるとは思いません。
 無料公開されるファイルが増えていけば、読者が作品を自由に選べる権利やチャンスも広がります。前宣伝や伝聞情報に頼らず、自分の趣味や意志で読書ができるということです。このことは、文芸の世界にとってもよいことであるはずです。
 ファイルが無料公開されていても、本を買いたい人は必ず買います。ファイルの無料公開により、中身がある程度評価された作品に関しては、本という形でもまた売れていくでしょう。

 あらゆるものが過渡期。本当にそうだなあと思います。
 数年後、あのときはあんな馬鹿なことをしたんだよな……と、この日記の内容を振り返っているような予感もします。  

 (00/11/06 鐸木能光・記)
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 今日の放哉

 

 尾崎放哉


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