{フォント @MS 明朝,16}{幅 42} 滝を止めるもの         {ルビ たくき}鐸木{/ルビ}{ルビ よしみつ}能光{/ルビ} ∠¶∈  花文字で「ようこそ××温泉へ」と描かれた丸い花壇を横目に、タクシーは温泉街へと入った。メインストリートを抜け、ホテルの案内看板のある角を曲がると、正面の山の中腹に、白い壁の大きなホテルが見えてきた。豪華さを演出するあまりに建物の気品が失われている典型的な例だ。屋上にはホテルの名が入った電飾看板まである。 「せっかくの二人だけのプライベートタイムをこんな俗悪な温泉ホテルで過ごすのか?」 隣に座っている{ルビ たまこ}球湖{/ルビ}に向かって、私はまるで独り言を言うようにそう言った。 旅行の初日から喧嘩したくはなかったのでずっと黙っていたのだが、ホテルの毒々しい外観を目にした途端、抑えていたものをとうとう吐き出してしまったのだ。 助手兼恋人の彼女とは、一年中あちこち仕事で一緒に旅行する。最近は少なくなったが、かつてはこうした観光ホテルでの仕事もかなりあった。しかし今回は仕事から解放された、久々のプライベート旅行なのだ。よりによってこんな場所を選ぶことはないだろう。 「いいのいいの。いつもは仕事でのステイだけれど、今夜は純粋にレジャー客として過ごすのよ。私たちのような商売には、そうした視点での勉強も必要だわ」 「だから、勉強とか仕事とか、そういうことを一切忘れたいと言っているんだよ」 「じゃあ、もっとひなびた温泉の一軒宿とか、白いペンキで塗りたくった可愛らしいペンションとかのほうがよかった?」 私はすぐに、二年前にやはり球湖と二人だけで泊まった白馬のペンションでの休日のことを思い出した。 仕事の関係で夜遅く到着し、翌朝朝食の時間が決められているというので、半分ねぼけながら食堂に降りていったときのことだ。 食堂のドアを潜るなり、ほとんど朝食を済ませてくつろぎ始めていた若い客たちが全員、一瞬凍りついたようになってしまった。 私は思わず顔に手をやった。  いつものくせで、ついうっかりサングラスを掛けていたのだった。 別に、朝っぱらからサングラスをかけている男を見て、他の客たちがヤクザだと思ったわけではない。有名人と思いがけず同じ場所に居合わせてしまったことに対する、少なからぬショック症状だった。  サイキック・イリュージョニスト{ルビ げんじろう}幻治郎{/ルビ}。 当時、日本中で私の顔と名前を知らぬものはほとんどいなかった。 ただし、それは髪をオールバックに撫でつけ、大きめのサングラスをした仕事用の顔だ。 しょぼしょぼした目と、癖の強いボサボサ頭、そして「佐藤弘」という平凡な本名を持つ私の素顔を知る者は少ない。 「小さな宿はそれなりにムードがあって素敵だけれど、先生の正体がばれたとき、とても気詰まりなのよね。こういう大きな観光ホテルなんかのほうが、かえって大勢の客の一人として紛れ込めるものよ。もっとも、先生がいつかのようにうっかりサングラスを掛けて食堂に現れたりすればすべてはパーだけれど」 「規模のことを言っているんじゃない。俺はセンスのことを言っているんだよ」  言い合っているうちに、タクシーはホテルのフロント前に停まった。 オレンジ色の派手な制服を着たボーイが駆け寄り、とんでもなく大きな声で「ようこそ××観光ホテルへ!」と言いながら、うやうやしく頭を下げて迎えた。 私は癖の強いぼさぼさの髪をほとんどそのままにし、サングラスも眼鏡もかけていない素顔をボーイに向けた。  ボーイは私の顔を素早く観察してから「ご宿泊ですか?」と訊ねた。 「ええ、そうよ。佐藤弘で予約してあるわ」  球湖が代わりに答えた。 「ありがとうございます。お荷物をお運びいたします」  そう言うと、ボーイはもう一度私の顔を盗み見てからタクシーのトランクに回った。  大方、会社の上司と女子社員の浮気旅行だと思っているのだろう。しかし、毎日さまざまな客を迎え入れているこの男も、私が幻治郎だということにはまったく気づいていないようだ。  よし、ここは一つ、かわいい球湖の好きなようにさせよう。  風采の上がらない中年男「佐藤弘」として、このセンスのない観光ホテルで他愛のない時間を過ごすのもいいかもしれない。  私は運転手に料金を払っている球湖をおいて、さっさとホテルのロビーへと入っていった。 ∠¶∈  ホテルの部屋の窓からは、温泉街のげびた夜景が一望できた。  周囲の観光ホテルやバーのネオン。  ストリップ劇場の宣伝カーがゆっくりと眼下を通りすぎていく。  私はふと、修行時代を過ごしたラスベガスの夜景を思い出していた。  もちろんこの夜景とは比べるべくもないが……。  私は福島県の郡山に生まれた。親父はかつては腕のいい大工だったそうだが、私が物心ついたときには腕も錆びれ、ただののんだくれに成り下がっていた。  お袋はもともと身体が弱かったが、私が中学を卒業するのを見計るように死んだ。  私は家を出て、温泉地でバイトを始めた。そこでドサ回りの奇術師に拾われ、弟子入りしたのが十七のときだった。 ストリップ小屋の幕間の余興なども手伝ったが、やがて師匠の向上心のなさに見切りをつけ、単身アメリカに渡った。 アメリカでもかなり苦労したが、運よく、かつてラスベガスで鳴らしたという老マジシャンに師事し、十五年あまり、本場のマジック技術を学ぶことができた。 師匠は「死ぬ前に初めて私を超える弟子を育てることができた」と言い残し、数年前にこの世を去った。 師匠の跡を継いで暫くはアメリカで働いていたが、四年前、あるプロモーターの引きがあって帰国した。  帰国してからは一気に運が開けた。 おりからのオカルトブームに目をつけ、マジックと超能力を結びつけるアイデアであっという間に人気が出たのだ。 手のひらをコインやグラスの上にかざして「気が流れる、流れる……よし、入った!」と言う独特のスタイルは流行になり、コメディアンの中には、私のものまねをする者まで現れた。 「あれは超能力でも何でもない。ただの手品です」と、ムキになって騒ぎ出す三流マジシャンやタレント学者もいた。 もちろん私は相手にしなかった。 「私は自分のショーを、超能力だともマジックだとも言っていません。判断するのは見ているあなたなのです」 いつもそう言って逃げた。 しかし、結局私の人気を支えてきたのは、高度な技術と、それを可能にした絶え間ない努力、そして少しばかりの知恵なのだ。 マジック界ではすでに常識として知られているアイデアや技術も、ちょっとした発想の転換や創意工夫で、まったく新しい切り口が開けてくる場合がある。 例えば、スプーンを曲げるだけならどんな素人にもできる。木のスプーンを曲げることはできなくとも、鉄のスプーンは力を加えれば簡単に曲がるものだからだ。  一方、曲がってちぎれたスプーンを元通りに戻すことは素人にはできない。これをやると客の期待は快く裏切られ、驚嘆と賞賛の拍手を送る。 素人は、スプーンが曲がるよりも、ちぎれたスプーンが元通りに復元するほうがはるかに驚異に思えるわけだが、やる側としては、曲げるよりも元に戻すほうがやさしいのだ。  もちろん曲げてちぎれたスプーンが元通りになるはずはない。新しいスプーンとすりかえるのだ。  素人のインチキ超能力者がやってみせるスプーン曲げは一種の「力技」で、指先に一瞬強い力を加えなければならないが、すり変えるのは純粋にマジックの技だ。 客の視線を巧みに逸らして、計算し尽くされた動きの流れの中で折れたスプーンを新しいスプーンにすり変える……。 こうした「技術」に関しては、私はすでに世界でも一流の域に到達していると自負している。だからこそ、爆発的な「幻治郎ブーム」が去った今でも、マジシャンとしては破格のギャラと待遇を得続けていられるのだ。数千人規模のホールで単独の公演を打てるマジシャンなど、日本には私くらいしかいない。 「温泉に入って、ショーを見ながらお酒を呑んで、後はこの窓から星空を見ながらのんびり夜を過ごす……ね、悪くないでしょ?」 部屋に入ってからも球湖は上機嫌だった。 このホテルで二番目に高い部屋だそうだが、ピンク色のベッドカバーといい、花柄の壁紙といい、どういうやつがデザインしたのか顔が見てみたいものだ。 「ショー? もしかして、フィリピンのお嬢さんたちが紐みたいな衣装を着てボンボン踊りをするアレか?」 私は窓から温泉街の夜景を眺めたまま、球湖に言った。 球湖は冷蔵庫の中身を調べている。 「ダルマのミニチュアボトルとビールかあ……物足りないから、後でルームサービスで何か取ろうかしら。私、カクテルが呑みたいのよね」 まったく人の話を聞いていない。 いや、聞こえているくせに、わざと無視するのだ。  どうしても必要なこと以外、私が同じ言葉を繰り返さないということを知っている彼女は、時折こういう態度を取る。  球湖はもうすぐ三十になるのに、まるで学生のように見える。  時としてその子供っぽい風貌から、今一つ相手に信用を得られないこともある。  昨日大学を出たばかりのような童顔の女が、数百万、数千万というギャラの交渉を一人でやるのだから、金を出す側が戸惑ってしまうのも無理はない。 しかし、仕事は見事にこなしてくれる。  マジックの舞台というのは芝居や音楽の舞台とは違った、難しい問題が山ほどある。主催者やステージスタッフといえども、こちらの手の内を明かすわけにはいかない。「あのマジックの仕掛けは……」などという話がどんどん広がっていけば、マジシャンはたちまち権威失墜し、失業してしまう。  大がかりなマジックでは、ほんのちょっとした段取りの間違いで命を落とすことだってある。  そうした難しい問題を抱えながらも、球湖は実にてきぱきと仕事を片づけていく。 「とりあえずは、ビールでもいかが?」  球湖は冷蔵庫から出した缶ビールをグラスに注いで持ってきた。  私が球湖と初めて出逢ったのは、今から五年ほど前のことになる。 恋人としても彼女は優れたところがいろいろあるが、一つは私に嫉妬をしないと同時に、私を嫉妬させないというところだ。 旅先などで私が女遊びをしても、彼女は知らん顔をしている。逆に、私が知る限り、彼女が私以外の男とつき合っている素振りを見せたことはない。 あまりにも都合のいい女なので、時々私は彼女の本心が分からなくなる。彼女はどこまで私のことを信頼し、愛しているのか? もしかしたら、私にそう気を揉ませるのが彼女の狙いなのかもしれない。 「馬鹿みたいなショーを見るのだけはやめようぜ。どこか外に雰囲気のいい店か何かないのか? カクテルが呑みたいんだろ?」 私はもう一度言った。 「馬鹿みたいかどうか、見てみなければ分からないじゃない。馬鹿みたいなら馬鹿みたいで、それも勉強になるわ。こういうショーはプロとしてやってはいけないんだって分かるでしょ」 球湖はそう言って笑った。 この笑顔に私は弱い。 私は仕方なく、今度の旅行はすべて彼女の思い通りに仕切らせようと、改めて腹を決めた。 ∠¶∈ ショーは思っていた通りの、外国人の下手なレビューだった。 東南アジア人と白人、あるいは南米系の女性たちの混成部隊は、「いとすさまじ」の独特の世界を生み出していて、それなりに面白かった。 注意深く見ると、やる気がない者と、一生懸命な者との差が歴然と分かる。足の長さなど、容姿で見劣りがするアジア系の女性たちの中には、相当ダンスの練習を積んだと思わせる迫力を感じさせる者もいた。 逆に、いちばん背が高く、グラマラスな肢体と金髪(恐らく染めたのだろうが)を誇る白人ダンサーはまったくやる気がなく、私のショーマンシップを苛立たせた。 努力をする者としない者、あるいは才能や実力がある者とない者との差がギャラに反映されないという理不尽を、私は今までさんざん見てきた。見た目の押し出しのよさだけで、もしかしたら最も高額のギャラを取っているかもしれない白人女性の下卑た笑顔が、次第に鼻につき、酒がまずくなりかけたころ、ステージは一転してマジックショーになった。 不揃いな前歯が目立つ、猫背の中年男が現れ、下手なおしゃべりを交えながら月並みなマジックを始めた。 カードを扱う手つきから、私には彼がひどい三流であることがすぐに分かった。 大体、芸名がひどい。 ポール山形というのだそうだ。 ジャック○○とか、デビッド××とか、日本のマジシャンにはこの手の芸名の者が少なくないのだが、いくらなんでももう少しなんとかならなかったのだろうか。もっとも、私も芸名のセンスに関してはあまり大きなことは言えないが……。 月並みなカードマジックを心もとない手つきでいくつか披露した後、彼は客席に向かってこう言った。 「お客様の中から、どなたかお一人こちらにお手伝いにおいで願えませんでしょうか?」 ステージに近いテーブルにいた、ホテル備え付けの浴衣姿の中年男が、「ウホーイ」と大声を上げて出ていった。 すでに大分出来上がっている様子だ。 こういう場合、演者はできるだけ見映えのする若い女性や、いかにも穏やかそうなご婦人などを指名するものなのだが、間髪入れずに出てこられては仕方がないだろう。 それにしてもステージにぱっとしない中年男が二人並んでいる図というのも情けない。まったくどこまで悲惨なショーなのだ。 ポール氏は、大きめのデック(カード一組)を扇形に広げると、 「さあ、どれか一枚お選びください」  と言った。 扇の形が不均一で汚い。こんなところにも彼の技術の未熟さが現れてしまう。 「はい、引きましたか。では、私は見ていませんから、それをお客様に見えるように高く掲げてください。よろしいですか?」 酔った中年男性はクラブのクイーンのカードをニコニコしながら客席に示した。 「お客様がたもみなさん分かりましたか? はい、ではこのカードの山に戻してください」 ごくありふれたマジックだ。 これをマジシャンが後から選び出すというものだろう。 もちろん私にはトリックが分かっている。 最も簡単なものとしては、カードの山に最初から仕掛けをしておき、客が引いて戻したカードが一目瞭然に分かるというのがある。 しかし、彼は一応はプロらしく、もう少し凝ったマジックをやろうとしていた。 カードの山を透明なキャンディボールの中に入れ、そこから客の引いた一枚をスルスルと浮き上がらせるというものだ。 これは客には見えない糸を使った代表的なマジックだ。私も何度もやったことがあるし、今でもちょっとした酒の席などでやってみせることがある。 「見えない糸」はマジシャンにとっては最も重要な道具の一つだ。いかに見えにくく、丈夫で、扱いやすい糸を入手するかによって、そのマジシャンの芸のクオリティもおのずと決まってくる。いくら糸を扱う技術に優れていても、ちょっとした光線の加減で客席から見えてしまうような糸を使っていては話にならない。 よく知られているのはナイロンストッキングやデンタルフロス(糸ハブラシ)を{ルビ ほど}解{/ルビ}いて手に入れる方法だが、私くらいの超一流になると、毛細血管などを縫い合わせる外科手術用の特殊な糸を使うことが多い。これは日本では普通には手に入らない。 アメリカのプロ専門の奇術用品ディーラーなら、そうした高級な「見えない糸」を扱っているところもある。  しかしまあ、観光旅館のショーの幕間にやっている程度のマジシャンが使う糸では、ごく普通の奇術用品店で売られている安物だろう。 私は高をくくって彼の手元を見ていた。 もしかしたら糸が見えるかもしれないし、見えないまでも、彼の動きや手つきから、糸がどのように張られているか、簡単に見抜けるはずだ。 「さあて、お客さん、さっき引いたカードの図柄を頭に思い描いてください。私がそれを読み取って、そのカードを呼び出しますんでね。ハイ、テレパシーだよピュピュピュのピュッ!」 ひどいかけ声をかけながら、ポール山形氏は大袈裟な手つきでグラスの上に手をかざし、気合いを入れた。  すると、カードの山の中から一枚がゆっくりとせり上がってきて、グラスの上、空中高くふわふわと浮いた。 カードにはなんと、金髪女性のヌードが描いてあった。 舞台に上がった客の仲間たちから、下品な高笑いが起こった。 「おおっと、何か妙なものが見えましたか? いや、困るなあ、お客さん。もっと真面目にテレパシー送ってくれなくちゃあ。じゃあもう一度お願いしますよ。ピュピュピュのピュッ」 彼がそう言うと、カードはひらひらとキャンディボールの中のデックに戻っていき、今度はちゃんとクラブのクイーンがせり上がり、ボールの上の空間でクネクネと踊るように揺れた。 客席から「おおっ」という驚嘆のため息が漏れる。 「これで合ってますか? いやあ、お客さん、つくづく女性が好きなんだねえ。ミツバのお姫様ね。今夜、こんな美女とうまくやろうなんて思ってるんだろ、このシケベ親父が! ……アラ、失礼! どうもありがとうございました。ではでは……」 ポール氏はそう言うと、ステージの袖にそそくさと引っ込んだ。 舞台が暗転して、けたたましい音楽とともに、衣装替えした女性たちが再び現れた。 「本当に幕間芸なのね。五分もやってなかったんじゃない?」 球湖がダイギリの入ったグラスに手を伸ばしながら言った。 私は黙っていた。 「大体、クラブのことを『ミツバ』ですって。マジシャンというよりは田舎のおじさんの宴会芸ね」 球湖は同意を求めるように私の顔を覗きこんだ。 私はそれでも黙っていた。 しかし、ひどい演出に腹を立てたわけではなかった。 彼のあの「低級な」マジックのトリックが、まったく分からなかったことにショックを受けていたのだった。 ∠¶∈ その後どんな食事をし、球湖とどんな会話を交わしたのか、私は覚えていない。 結局、私はレビューショーの幕間に三回現れたポール山形氏のマジックを、すべて見てしまった。 彼のマジックは、ごくごくありふれたものが中心だったが、中にまったくタネの分からないものがいくつかあった。 紙ヒコーキがスルスルと飛び立つもの。ティッシュペーパーが空中に浮かぶもの。パターンはみな同じだが、どれも糸を使っている形跡が見抜けないのだ。 技術的に見て明らかに三流のマジシャンが、一流の私に見抜けないマジックをする……こんなことは今まで経験のないことだった。 「タネが分からなかったということが、そんなに問題なの?」 部屋に戻っても着替えようともせず、深刻な顔で考え込んでいる私に、球湖が声をかけてきた。 「あたりまえじゃないか」 私は吐き捨てるように言った。 「でも、大体のことは分かるでしょう? あの、カードがせり上がるマジックだって、糸を使っていることは間違いないんでしょ?」 さすがに私のマネジャーだけあり、基本は理解している。 「普通に考えればね」 そう答えながら、私は最初にショックを受けた、あのオーソドックスなカード当てのマジックのトリックをまず考えてみた。 素人が見れば、よくあるマジックの一つにすぎないだろう。しかし、一見「よくある」ネタに見えるからこそ、プロが見れば無視できない不条理が浮かび上がる。 デックからカードが一枚せり上がるという仕掛けに限らず、小物を空中浮揚させるマジックの場合、ほとんどは「糸」を使う。 あの場合、客がデックにカードを戻すときにカードに糸を絡ませ、後でそれを引くことによってカードがせり上がるように見せるのが定石だ。 糸の端は、洋服のボタンや爪の先などに結んである。観客に糸の存在を意識させないような手つきで演技するのがコツだ。 しかし、一流プロの私がいくら注意して見ても、彼がカードに糸を絡ませる動作をしたようには見えなかった。 カードがせり上がるときの、手とカードの位置関係もおかしかった。糸をどういう形で張ったとしても、手の動きと合わない。 そして決定的なのは、カードがただせり上がるだけでなく、空中高く浮かび上がり、ひらひら揺れたという点だ。 それも、糸で釣ったときの揺れ方とはまるで違う、ふわふわと柔らかく漂うような揺れ方をしたのだ。 こうなると糸を使ったトリックではない可能性も出てくる。糸ならば、その糸を釣る支点がかなり高いところになければならないはずだが、舞台の構造からいっても、それは絶対に無理な相談だった。 磁気か空気を使ったトリックだろうか? いずれにせよ、私には考えつかない。 無名の三流マジシャンが、なぜ私にできないマジックをすることができるのか? いや、なぜ「三流」と決めつけるのか? もしかしたら彼は類稀なる天才ではないのか? それとなく何度も誘う球湖を無視して、私は眠れぬ一夜を過ごした。 ∠¶∈ 翌朝、味気ないトーストとハムエッグの朝食をとりながら、私はまだあのマジックのことを考え続けていた。 私はどうしても彼の秘密を知りたかった。 呆れる球湖を説得して、私はさらに一日、そのホテルに宿泊することにした。 目的はもちろん、あのポール山形氏のテクニックを研究することである。 私はまず、従業員たちにそれとなく近づいては、彼のことを訊いて回った。 「ポールさん? ええ人やわあ。顔はぱっとせえへんけど、心があったかいゆうんかなあ……」 ……と、配膳係のおばさん。 「トランプが浮き上がる手品でしょ? あれ、何回見ても不思議ですよね。でも、さすがにもう見飽きましたけれどね」 これは舞台の照明係の若者。 「ポールさんでしたら、今頃またお風呂じゃないかな。あの人、客があまり入らない午前中の時間帯に大浴場に行くのが日課みたいですよ」 そう言ったのは、フロント係だった。 私は試しにこのホテル自慢の大浴場に行ってみることにした。 昨夜はあのマジックのことで考え込んでしまい、部屋のバスルームで軽くシャワーを浴びただけだった。 大浴場はホテルの最上階にあった。 なるほど空いている時間帯だけあって、脱衣場には二、三人分のスリッパしかなかった。 私が入るのと入れ違いに、中年の男性が出てきた。しかし、長身で白髪混じり……一目であのマジシャンではないことが分かった。 少し緊張しながら服を脱ぐ。 大丈夫とは思うが、こんな場所で「幻治郎」だと見抜かれると、妙に気恥ずかしい。 大浴場はなかなかのものだった。 ジャングル風呂、展望風呂、さらにはサウナ、打たせ湯、ジャグジーなどが組み合わされたクアハウス風のコーナーが複雑に入り組んでつながっていて、全部回ると結構時間がかかる。 その広いスペースを、私はポール氏の姿を捜しながらゆっくりと移動した。 ポール氏の姿は見あたらなかった。 私は諦めて、大浴場のいちばん奥にある露天の岩風呂にのんびりと浸かり、岩の間から流れ落ちる湯を眺めながら、再びあのマジックのタネのことに思いを巡らせた。 やはり糸ではなく、何か他の仕掛けで……。 そのとき、私はさっきから妙な雰囲気に包まれていることに気がついた。 音……。 そう、岩場から湯船に落ちる湯の音が不自然に揺らいでいるのだ。 トトト……ト・・・ト・ト・・・・トトトト・トト・・ト……。 湯が跳ねる音が断続的に途絶えるだけでなく、その音の高さが微妙に違っている。噴水の音やせせらぎの音など、自然界で聞かれる水音とはどこか違う不自然なリズムなのだ。 私は岩場の湯の吹きだし口を見た。 湯はチョロチョロとした力のない流れを作り、岩肌を暫く伝った後、岩が飛び出した部分で空中に放り出され、細い滝になって湯船に落ちている。 暫くその様子を見ていた私は、かなり熱い湯に浸かっているにもかかわらず、全身凍りつくようなショックを受けた。 湯の落ちるスピードが変化しているのだ。 岩場から落ちる湯の流れが、一瞬空中でゆっくりになったり、ほとんど止まって丸い水滴のまま浮かんでいたりするのだ。 そんな馬鹿な……。 私は恐る恐る、湯船の中を歩いて、湯が吹き出している岩場のところに進んだ。 その途端、背後で何かピンと張り詰めたようなものを感じた。 思わず振り向くと、岩の壁の凹み部分に身を隠すようにして湯に浸かっている中年男と視線が合った。 薄い頭、半開きになった口元から覗く不揃いの前歯……湯気で視界はそれほどよくはなかったが、すぐにポール氏だと分かった。 彼はもう大分前からそこにいたらしい。岩が入り組んでいて、ちょうど今まで私がいた場所からは死角になっていて見えなかったのだ。 私たちは暫く無言のまま見つめ合っていたが、ポール氏のほうが先に視線を逸らした。 私はすぐに、吹きだし口から流れ落ちる湯へ視線を戻した。 湯の流れはごく自然に湯船へと注ぎ込んでいる。 私は再び背後のポール氏のほうを振り向いた。 彼は湯船から上がって、脱衣場のほうへ戻ろうとしているところだった。 貧相な尻とガニ股気味の脚から、湯が滴っている。 声をかけようとしたが、彼は足早に脱衣場へと消えていった。 ∠¶∈ その夜、私は球湖と一緒に昨夜と同じテーブルでショーを見た。 ポール氏は昨夜とまったく同じマジックをした。 「どなたかお客様で……」 彼が言い終わらぬうちに、私は高々と手を挙げた。 ポール氏は一瞬困惑した表情を見せたが、私は構わず立ち上がり、ステージのほうへ歩み出た。昨夜の中年の客と同じ戦法だ。 こうなるとポール氏も拒否はできない。彼は少ししどろもどろしながらも、私にカードを一枚選ぶように言った。 私は指示された通りに、選んだカードを客席に見せる。 ごく普通に選んだが、なぜか昨夜と同じ、クラブのクイーンだった。 もちろんカードが全部クラブのクイーンだなどという単純なトリックではない。私は素早く彼の手にしたデックを確認していた。例のヌードの女性が描かれたカードはすでに仕込まれている。彼のカードの開き方が下手なので、二枚重ねているのはしっかり見破れた。 しかしこれだけではなんの種明かしにもならない。 私は選んだカードを戻した。それを彼がキャンディボールの中に縦に立てかけるように入れる。私は彼の手元はもちろん、上着の襟やボタンまで、しっかりと見ていた。 怪しいところは……ない。  今のところ、糸を使っている形跡はまったくない。磁気や空気を使う可能性も、この状況ではなさそうだ。 「お客さんの選んだのはもしかして……」 キャンディボールの中からまず、ヌードの金髪白人女性が描かれたカードが浮き上がり、宙に舞った。 客席から笑いが起きる。 「いやあ、お客さん、なかなかどうして、テレパシーに雑念が入っているようですねえ。困りましたね。じゃあ、もう一度……」 昨夜と同じ演出だ。何度見ても下品きわまりない。 「じゃあ、今度こそ……」 そう言うと、ポール氏はもう一度キャンディボールの中のデックに念力を送るポーズを取った。 一枚がするすると宙に浮かんで揺れた。 客席から、中途半端なため息が漏れた。 空中に舞っているカードは、ハートのAだった。 ポール氏は自信たっぷりに言った。 「これですね?」 「いいえ」 私は答えた。 客席からまばらな笑い声が漏れた。 「意地悪なお客さんだこと。強がり言っても駄目ですよォ」 ポール氏は困った顔を向ける。 私は黙って客席のほうを見た。 「違う違う。クラブのクイーンだったぞ」 酔った中年男性が大声を上げた。 「そんな……」 ポール氏はそこで初めて、自分が予期せぬ事態に遭遇していることを悟ったようだった。 そのとき、客席から「おおっ」という歓声が起こった。 ポール氏の上着のポケットから、私が選んだクラブのクイーンのカードが一枚ふわふわと出てきて、私とポール氏の中央に浮かんでいたのだ。 ポール氏は目を丸くしてそのカードを見つめている。 同時に、キャンディボールの上に浮かんでいたハートのAのカードがひらひらと落ちて、ボールの中に入った。 客席から拍手喝采が起こった。 私は宙に浮かんだクラブのクイーンを手に取ると、「凄い!」と感嘆するような表情を作って、ボールの中に戻し、ステージを降りた。 次のレビューの始まりを告げるファンファーレが鳴った。 ポール氏は慌てて道具を乗せたテーブルを押し、ステージの袖に消えていった。 ∠¶∈ 「今日のは昨日のショーよりも凝っていたわね」 ベッドの中で、裸の球湖が言った。 「最後のびっくりしたような顔なんて、結構いい演技だったわ」 私は何も答えず、じっと天井を見上げていた。 「どうしたの? 先生。仕事のことは忘れたいって、自分で言っておいて……」 私が物思いに耽ったまま相手にしないので、球湖はやがて拗ねたように背を向けてしまった。 私はどうにも寝つかれず、そっとベッドを抜け出すと大浴場へと向かった。 すでに夜中の三時を回ろうとしていたが、先客が一人だけいた。 なんとなく予感はあった。 果たして、いちばん奥の露天風呂コーナーには、午前中見かけたあの岩場の陰に、あのときとまったく同じようにポール氏が一人で湯に浸かっていた。 私は彼に気づかれないように、午前中とは反対側の方向に回り込み、彼の斜め後方数メートルから様子を窺った。 彼は身動き一つせず、湯が流れ落ちる岩の壁を見つめていた。 湯の流れは、午前中見たときよりもより一層極端に、不思議な揺らぎを示していた。 流れ落ちる細い湯の筋は、時にはまるで宇宙船の中に浮かんだ水のように、まん丸の水玉となって空中に静止することもあった。 「大した力をお持ちですね」 私は背後から声をかけた。 ポール氏はぎょっとしたように振り返った。 その途端、細い湯の滝は本来の正常な流れに戻り、湯船に落ちる音も規則的なものに変わった。 ポール氏はすぐに、舞台のときと同じ作り笑いを浮かべて言った。 「いやあ、子供だましの下手な手品でして、お恥ずかしいことです」 湯の滝を止めるのも手品なんですか?」「え? 何のことです?」  ポール氏はおどけた口調で言った。  とぼけるポール氏を圧するように、私は真剣な眼差しで見つめると、こう言った。 「驚きましたよ。まさか世の中に本当にこんな念力を持った人がいるなんて」  ポール氏は困惑した表情で沈黙した。  やがて、ごまかしきれないと悟ったのか、静かな口調でこう言った。 「あなた、このことを誰かに話すつもりですか?」 半ば脅迫のようなニュアンスが込められていた。  私は言葉に詰まった。  そこまで考えてはいなかったということもあるが、ポール氏の表情があまりにも険しく急変したことで慌てたのだった。  この男が本当に念力を使える超能力者だとすれば、例えば私の心臓を今ここで止めてしまうこともできるのだろうか? もしそうされたとしても、私が「殺された」という証拠は何も残らない。入浴中に心臓発作で急死したと診断されるだろう。 「どうなんですか? このことを誰かに話すのですか? それとももう、話したのですか?」  ポール氏は厳しい表情のまま問い詰めた。 私は心臓が締めつけられるのを感じながら答えた。 「いえ、そういうつもりは一切……。それに話したところでにわかには信じてもらえないでしょうし」 「そうでしょうね。でも、ただの噂だとしても私は困るんですよ。いや、すでに十分困っています。あなたに秘密を知られて」  ポール氏はそう言うと私の目をまっすぐに見た。舞台の上での、あのどこか自信のなさそうな顔とは大違いだった。  私は不用意に言葉を滑らせたことを後悔した。こんなところで全裸のまま死んでしまうのか? [幻治郎氏××温泉ホテルの大浴場で急死]という新聞見出しが頭に浮かんだ。殺されるかもしれないという間際にまで世間の目を気にするとは、名声や権威が私を知らぬ間に弱い人間に変えてしまったらしい。 「あなたが困るというのなら誰にも言いませんよ」  私はようやくそれだけの言葉を口にした。 「本当ですか?」  ポール氏が訝る目つきで訊き返した。 「ええ。約束します」 ポール氏は私の顔をじっと見つめていた。  私をここで殺してしまおうかどうか、思案しているのだろうか。 今まで経験したことのない恐怖と緊張で、心臓のあたりが苦しくなった。いや、もしかしたらこの男が私の心臓に念力を送っているのかもしれない……。 「誰にも言わないでほしいんですよ。お願いします」 しかし、再び口を開いたポール氏は、ほとんど哀願口調になっていた。 どうやら私の考えすぎだったようだ。  私は落ち着きを取り戻してこう言った。 「約束しますよ。その代わり、あなたの力のことについて、少し詳しく教えていただけませんか?」 ポール氏は暫く思案していたが、覚悟を決めた様子でこう答えた。 「分かりました。でも、その前に、今夜のショーであなたが起こした奇跡のことについて話してください。私、あまりのことに、あのときは取り乱す寸前でしたよ。最初は私の念力が異常な形で暴走したのかと思ったのですが、後でよく考えてみて、気がつきました。あなたが何かしたに違いないってね。あなたはもしかして私と同じような力を持っている同類ですか?」 「まさか……」 私は詫びをかねて、数時間前のショーでのことを説明した。 「実は私もプロのマジシャンです。幻治郎といいます」 「はあ……」  驚いたことに、ポール氏は私のことを知らない様子だった。マジシャンが幻治郎の名を知らないとは……。私は完全に拍子抜けしたが、気を取り直して続けた。 「私には、もちろんあなたのような特別な力はありません。普通のマジシャンです。 先ほどは失礼しました。実は昨夜のあなたのショーを見て、どうしてもトリックが分からなかったので、ちょっとした挑発をしてみたんですよ。 私は実は一枚ではなく、二枚のカードを抜いたのです。あなたにも客にも分からないようにね。そして、みんながカードの山のほうに注意を向けている隙に、客席に示したほうのカードはこっそりあなたの上着のポケットに忍ばせたんです。見えない糸を絡めてね。 ですからあれは糸を使った純粋なマジックです。あなたの超能力とはまったく違う。失礼ながら、あれほど驚いた顔をなさるとは、あなたは本来のマジックに関してはまだ初心者とお見受けしました」 「その通りです。腹が立つでしょうなあ、あなたのような本物のプロから見れば。私のようなインチキ手品師がいかにもプロのような顔をして仕事をしているなどというのは許せないことでしょう?」 「腹が立つというよりは、ショックですね。何のために今まで辛い修行をしてきたのかと思うと」 「すみません」 「いや、謝られるようなことでも……」 「いえ、謝らなければならないですよ。特にあなたのようなプロの方には」  ポール氏は元の気弱な中年男性の顔に戻っていた。  少なくともここで命を取られることはなさそうだと分かり、私はすっかり落ちつきと自信を取り戻した。 「随分弱気ですね。でもそれも妙な話だ。見方を変えれば、あなたは本物の魔術師、超能力者で、私たちのほうこそペテン師だということになる。それに、あなたほどの特殊能力があれば、こんなうらぶれた稼業ではなく、それこそ国家的な仕事でも何でも……」 「それが嫌で、こうしてのらりくらりと暮らしているんですよ」 ポール氏は急に語気を荒らげて私の言葉を遮った。 「本当に、そういう事態をいちばん恐れているんですよ。科学とやらの実験台に上げられたり、世間から特別な目で見られたりすることだけは絶対に嫌なんだ。あなた、これがいかに恐ろしいことか分かりますか?ある意味では私は『人間』じゃないという烙印を押されることになる。未知の宇宙人のようなもんだと見なされ、権力者や学界の権威者とやらに実験動物扱いされることになるかもしれない。そんなことで一生をめちゃめちゃにされたくはないんです。  私はただ、パチンコで稼いだり、手品師の真似ごとをしたりして、のんびり生きていければ十分なんです」 「なんだかもったいない気もしますね」 「とんでもない。大した役にも立たないですよ、こんな力」 ポール氏は吐き捨てるように言った。 「巨大な岩を動かせるとか、念力で世界平和を実現できるとかいうんならいいんですがね。そんなんじゃない。念力といっても、せいぜい数グラムの物しか動かせないんです。 私は思うんですけどね、恐らく人間というのは誰でも共通して微弱な念力を持っているんじゃないですかね。それがたまたま私の場合は、数グラムの物を少しだけ動かす程度に強いらしい。でも、そんなもの、何の役に立ちますか? 小指一本の力よりずっと弱いんですよ。手足を使ったほうがずっと早い。 ただ、どういうわけかこうした露天風呂に浸かっていると力が倍増するようなんですよ。さっきみたいにあの程度の湯の流れを止めることもできる。地球の内部から湧き出す力と宇宙から降り注ぐ力が融合するような感じですかね。でも、風呂から上がって一時間もするとほとんど力は弱まってしまって……。毎晩ショーの前にはここに来て鋭気を養うんですが、それでもカード一枚がやっとで、コインとなると相当きつい。その程度のものなんです」 「でも、奇跡の力であることに変わりはないでしょう」 「冗談じゃない。あなたは何も分かっていない」 どうやらポール氏は本当に怒り出してしまったようだった。 「なまじこんな中途半端な力があるばかりに、若い頃から怠け癖がついちゃったんです。あなたのような努力を重ねた方にお会いすると、本当に罪悪感でいっぱいになるんです。一つの技術を身につけるために想像を絶するような努力をする……そういうことができる意思の力のほうがどれだけ奇跡と呼ぶに値するか……。あなたならお分かりのはずでしょう? 私はあなたが羨ましい」 ポール氏はそう言うと、背中を丸めて湯船から上がり、貧相な尻から湯を滴らせながら、足早に脱衣場のほうへ去っていった。 呼び止めようとしたが、思い直してそのままにしていた。 彼の背中がすべてを拒絶しているように見えたからだ。 私はそのまま暫く、黙って岩の壁を伝わる湯の流れを見ていた。 やがてふと思い立ち、いつもステージでやるように片手をかざすように突き出し、心で強く念じてみた。 「気が流れる、流れる……湯の滝よ、止まれ!」 湯は何の変化も見せずに落ち続け、誰もいない浴場にトトトトト……という規則的な音を響かせ続けていた。 私は、安堵のため息を一つ、ゆっくりと吐き出した。 そのとき、背後に人の気配がした。  振り向くと、湯気の中にタオルで前を隠しただけの球湖が立っていた。 「お、おまえ……」 「大丈夫。こんな時間、誰も入ってこないわ。それにここは一応混浴ってことになってるのよ」  球湖は平然とそう言うと、私の隣に身を沈めた。 「どうやらここの温泉のお湯も、宇宙からの霊気も、先生には効き目がないみたいですね」  球湖が私の耳元で囁いた。 「聞いていたのか?」 「ええ、岩の向こう側で」 「そうか……。ショックだよな、まったく」 「どうしてですか?」 「どうしてって……」  球湖はいつもの悪戯っぽい笑顔を作るとこう言った。 「ポールさんの言う通りだわ。奇跡を行っているのは先生のほうなの。あの人は努力して念力を手に入れたわけじゃないんだから、『ただの人』なのよね」 「努力しても手に入れられないから奇跡なんじゃないか」 「それは違うわ、先生。それにあの程度の念力を使える人間なんて、結構たくさんいるんじゃないかしら」 「いるもんか」 「じゃあ、先生、もう一度やってみて。念力であの湯の滝を止めてみせて」 「無理だよ」 「分からないわ。今度は私が一緒だもの」  そう言うと、球湖は大きくはないが形のいい柔らかな乳房を私の背中に押しあて、私の手を後ろから掴んだ。 「一緒にやってみません?」  私は乗せられて、もう一度湯の滝に向かって、球湖の手が添えられた右手をかざした。 「気が流れる、流れる……湯の滝よ、止まれ!」  今度はいつも舞台でやるように、言葉に出して言った。  するとどうだ、規則正しく流れていた湯の滝が、一瞬音を乱した。  ……いや、気のせいだったのだろう。長時間湯に浸かっていた上に、球湖に肌を密着され、のぼせたに違いない。 「やっぱりやめたわ」  私の左肩の上に顎をのせながら球湖が言った。 「やめたって、何を?」 「私の超能力を見せるのを。先生の素晴らしい奇跡をまだまだずっと見続けていたいから」 「どういう意味だよ」 「それは……秘密」  球湖は嬉しそうな声で囁いた。  私は上気した顔を両手でこすりながら、規則正しく流れ続けている湯の滝をぼんやりと眺め続けていた。 (了)    (執筆・一九九三年頃 {脚注 最初は「世にも哀しい物語」シリーズの一つとして書いたのですが、その後、「奇術師幻治郎シリーズ」として、娯楽色の強いミステリー路線を目指すことにしました。しかし、発表されたのは一作だけで、幻治郎シリーズは未発表作二作を入れ、全部で三作で止まっています。やはり、やり慣れないことはやめたほうがいいのか……}未発表作品{/脚注})