電脳文芸日記 7

 今日、未來社の西谷社長に会った。
 社長は、先日『出版のためのテキスト実践技法/執筆篇』という本を自ら出したばかり。
 この本は、少部数出版の道を探っていて、そのためには著者がきちんとしたテキストファイルで原稿を渡せる技術を持つことと、編集者がそれを正しく扱えることが必須という、ごくあたりまえのことを主張している。
 私の『テキストファイルとは何か?』や『ワードを捨ててエディタを使おう』に通じる内容なのだが、車を運転するには、まず運転技術を身につけなければいけません、というようなあたりまえのことを敢えて主張しなければならないところが、日本の出版界の大きな問題点だろう。
 本の作り方は変わってきた。現在、パソコンを使わずに本を作ることは、写植の時代に活版で本を作るようなものだ。しかし、編集者の多くはその現実から目を背け、技術や知識の習得をさぼっている。
 本の文化は今後どうなるのだろうか?
 音楽と同じように、大量に売れなければ切り捨てるという方向に向かっていくなら、本の魅力は薄れる。
 もともと、音楽業界に比べて、出版業界は裾野が広いし、携わっている人たちも教養があり、本を作ることに生き甲斐を感じるタイプが多かったと思う。しかし、最近ではどうも怪しくなってきた。志のある編集者はどんどんリストラされているし、元気がなくなっている。

 著者も出版者も、「出版でボロ儲けできるなんてことは、まずないのだ」と腹をくくることが必要なのではないだろうか。
 なんとか続けていく中で、よい本を1冊でも多く世に出したい……そうした原点に立ち戻らないまずいのではないか。少部数からしか出版できない本を切り捨てないことが大切だ。最初は少部数でも、運がよければ、売れていく本も出てくるはずだ。

 少部数出版を可能にする具体策として、こんな話が出た。
 最初は300くらいの極少部数出版をドキュテック(ゼロックスコピーの親玉みたいなもの)で行う。それにもちゃんとISBNコードを振り、全国から注文可能にする。売れ行き次第でオフセットで1000部くらいに切り替える。
 もちろん、中身がしっかりしていてある程度売れると思える作品は、最初からオフセットで1000部から始めればいい。
 1000部というのは大きな同人誌並みの数字だが、実際、純文学や学術書の一部などは、今では1000部をクリアするのも難しくなってきている。
 忍耐力のいる仕事だが、本来、出版というのはこういう精神に支えられていたはずだ。  
 ところで、彼と話していて改めて感じたのは、出版社の人間は、当然ながら本の体裁にこだわるということだ。割り付けの美しさとか、フォントのクオリティとか、見た目の押し出しのよさとか。日本独特のハードカバー文化というものも、そうしたところから生まれてきたわけで、「本が好き」な人間なら当然の気持ちだろう。
 一方、私はこのところずっと「合理的な判型」というのを考えている。
 日本の出版界、特に文芸の分野では、「四六判」というサイズが主流だ。135ミリ×195ミリ前後の判型で、いわゆるA系列にもB系列にも属さない大きさだ。
 世界的には、紙の大きさはA系列が主流で、一般の書類はA4だ。文庫本はA6にあたる。だったら、一般書はA5に統一してしまえば合理的だ。書棚などもすっきりする。
 そこで、先日限定出版した『黒い林檎』も、四六判ではなく、敢えてA5版というサイズにした。文芸書ではあまり見かけないサイズだ。
 A5版だと、縦組みすると1行が長くなるため、2段組にした。これは総ページ数を押さえる方法でもある。
『黒い林檎』は、本文部分が196ページで、扉と奥付を入れてちょうど200ページになっている。29字×24行×2段組。
 これを同じ文字サイズで四六判に割り付けると、23字×22行×2段組となり、254ページになる。約2割り増しだ。
 束(本の厚み)が20%違うと、「本としての風格が違ってくる」と編集者は言う。
 しかし、「本の風格」にこだわる読者がどれだけいるのかは疑問だ。
 
 大きさの他に、装幀の豪華さも問題になる。
 四六判というのは、ハードカバーの本にとってちょうどよい大きさのように思える。ソフトカバーのA5版はあまり邪魔にならないが、ハードカバーでA5版にすると、かなり扱いにくい印象が出てくる。
 ところで、このハードカバーという形態は、今後も続いていくのだろうか?
 現代人はハードカバーを求めているのだろうか?
 もしかしたら、ハードカバーというのは著者と出版者の自己満足が大きく、読者不在のパッケージなのではないか?
 最近、そんなことを感じ始めている。
 自分の作品がハードカバーの本として世に出ていくのは気分がいいものだ。私の場合、ありがたいことに、今まで出した小説のうち、1冊を除いてすべてがハードカバーだった。
 デビュー作からハードカバーを出してもらえたので、それがあたりまえのように思っていたところがある。文庫書き下ろしでさえ出してもらえない現在では、いかにありがたいことだったか、また、自分が出版というものに対して慢心していたかがよく分かる。

 しかし、一読者としては、ハードカバーの本に魅力を感じることはまずない。
 文庫やソフトカバーなら、鞄に入れて、電車の中で読もうかなという気持ちになるが、ハードカバーは「重いなあ」「邪魔だなあ」という気持ちが先に立つ。
 四六判250ページのハードカバーというのは、重量にして400g弱くらいある。これが、A5版ソフトカバー200ページだと、300g弱だ。携帯電話機の重さが70gを切っている今では、この100gの差というのも大きい。重さ以外にも、表紙が堅い本は、電車の中などでは読みづらいという弱点もある。
 
 もちろん、パッケージとしての魅力、本としての美しさという面では、ハードカバーが圧倒的に勝つわけで、多少高くても……という人は少なくないだろう。
 ハードカバーのもうひとつの利点は、耐久性があるということだろう。
 返本を繰り返され、倉庫への出し入れも何度も行われると、ソフトカバーの本はすぐに傷んでしまう。ハードカバーの本は、その点、年月を経ても商品として通用する。
   でも、それ故に、断裁処分になるときは虚しさが倍増する。
 贅沢なハードカバーの本を、何千冊も断裁し、ただの古紙にしてしまっていいのだろうか?
 皮肉にも、存在感の証である堅くて分厚い表紙は、立派であるが故に再生原料にすらならない。
 私は、ハードカバーは断裁処分してはいけないと思う。
 倉庫に置いておくだけで税金がかかるから断裁するという論理だが、それなら最初からハードカバーにするなと言いたい。(ついでに言えば、本の在庫に税金をかけてはいけないとも思う)
 ハードカバーにするということは、その本の「もの」としての寿命を延ばすことであるはずだ。多くの人に読まれても簡単にはボロボロにならないパッケージ。時間を経てもしっかり中身を守るパッケージ。
 しかし、現在のハードカバーは、そうした本来の使命はまったく無視され、単に、単価を上げるための手段(利ざやを増やす手段)としか見られていないように思える。
 売れる本は高く値段を付け、その値段の正当性を主張するためにハードカバーにするという論理。タレントの告白本が立派なハードカバーで売り出されるのはその典型ではなかろうか。その一方で、文芸書は文庫書き下ろしでさえ単価を下げるために総ページ数を減らされたりする。情けないことだ。

 まあ、本に対しては、矛盾するいろいろな感情が交錯してしまい、なかなか適切なことが言えない。
 とりあえず今は、少部数でも本が出せるシステムを作ることに、作家の立場で少しでも役に立ちたいと思っている。
 
 (2001年5月21日 記 鐸木能光) 

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 尾崎放哉


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